(半蔵門だより)

メディア・コンパス

ハンゾーモン 半藏門 江戸城内郭の城門の一。一に麹町御門ともいふ。吹上禁苑の裏に當る。名稱は門内に服部半藏正就の屋敷があったので名づく。半藏御門。

出典:「大辞典」第21巻 昭和11年5月刊 平凡社 発行者下中弥三郎

メディア・コンパス18『百舌の季節』

サトウ・ハチローの詩に「百舌よ 泣くな」というのがある。大衆詩人サトウ・ハチローの32歳の頃の作品で、昭和10年10月に刊行された『僕らの詩集』に収録されたものである。作品自体は、次の様な全体である。

百舌よ 泣くな サトウ・ハチロー

百舌が枯れ木に 泣いている
おいらはわらを たたいてる

わたひき車は おばあさん
こっとん水車も廻ってる

みんな去年と 同じだよ
けれども足り無えものがある

兄さの薪割る 音が無え
バッサリ薪割る 音が無え

兄さは満州へ 行っただよ
鉄砲が涙に 光っただ

百舌よ寒くも 泣くで無え
兄さはもっと 寒いだぞ

この解説を書いた与田準一によると、「昭和10年前後の少年少女雑誌ではハチローがもっとも活動し、第二次大戦への突入にしたがって、義美、聖歌、準一等は、百田宗治、丸山薫、村野四郎、山本和夫等の詩人とともに、小国民詩の世界に歩み入り、世は挙げて軍歌調となります。敗戦のいろ濃くなった昭和19年10月、日本小国民文化協会公募制定、軍事保護院献納小国民歌「お山の杉の子」は、サトウ・ハチローの補作によって、童謡調の終止符をうちました」となります。

ここでいう小国民とは、「年少の国民、すなわち次代をになう少年少女。第二次大戦中に用いられた語」ということになりますが、今ではすっかり使われなくなりました。

筆者は昭和11年1936年生まれですから、この詩が書かれた当時のことはもちろん判りませんでしたが、「百舌よ 泣くな」は昭和30年代の事だと思いますが新宿あたりの「歌声喫茶」ではよく歌われていました。また、「お山の杉の子」は昭和18年の国民学校入学ですが、その国民学校でも全校揃って歌わされていました。全校揃って歌う等は、「君が代」以外なかったころですから、非常な緊張感の中で全員多分歌っていました。

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ここでメディア・コンパスのテーマとして、この詩を取り上げてみたいと思ったのはよく見ると百舌にたいする経験が筆者とは随分と違う、ということです。

百舌は、筆者の経験の中ではどうしたわけか、田んぼが刈り上がって周りの森や林が裸になって、光のあるうちはいいが空が曇ると景色が一変してしまう秋が深まりはじめた頃、地上低く飛んで田んぼの藁ニオや葉を落とした木の上で、長めの尾を挙げて鋭く鳴いている。その頃になると、こども心にももう外に出るのがおっくうになって、学校帰りの風の強い日など、半ズボンのしたのふくらはぎから血が吹き出したりしてくる季節でした。帰り道に水でもいじろうものなら、もういてェいてェの世界で、母のメンタムか父親の馬の油ですくわれるしかありません。

そうなると、その後につづく季節の厳しさは予想できました。足全体がささくれだって、踵にはあかぎれが、ふくらはぎや脛にはひび割れができた。その痛いこと。これは毎年の事ではあったが、つづくのは耳たぼの雪焼け、手のあかぎれ、掌側の雪焼けで、それらがざっくり割れてしまえば、ヒネキツネといったと思うが黒い膏薬を貼ってあかぎれを閉じる。もうそうなったら炬燵に入るにも外に出るのも泣き泣きで、どちらもこれらの症状を改善することにはならなかった。

百舌が、キィーンと鳴いて目についたのはそうなる季節の少し前、まだ柿の実やドジョウ堀りに外にでる事がまだつづいている頃であった。

百舌はすばやくて美しい鳥である、という記憶がある。ただ、大人に聞かされた蛙や蝗をハンの木の小枝にさした早贄には、少し百舌の生活の背景を思わせるところがあって、支配者みたいな顔をしてバカな事をしているという感じがした。なにしろ百舌は、他の小さな野鳥も餌にするのである。それが空の雲を目印にするとはなんとしたことだろう。僕が実際に八幡様のハンの木のしたの畑で見た百舌の早贄は、ハンの木の小枝に刺された蛙と蝗とドジョウだった。既に相当に黒ずんでいて、生き物としても餌としても役に立ちそうにも思われなかった。

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「百舌の早贄」や「百舌の捧げ物」とか「空の雲を目印にする」だとか、そういうことを教えてくれたのは、父だったか祖父だったか忘れてしまったが、多分物知りの母だったかもしれない。ただ、「百舌の神への捧げ物」といった言い方には、「昔話」のような不可思議なことを言っているのではないという日常性があった。

もちろんそうした印象には、後日に聞かされたものとの錯綜があるのはやむを得ない。
筆者が発表当時に、この詩を読んだはずはないから、むしろ最初は新宿の「歌声喫茶」だったかもしれない。何故この詩を歌ったのかといえば、戦前にあった悲しむべき農村の現実を忘れてはなるまいという思いが、歌い手の中にあった様な気がするのである。

この詩を考えてみると、この詩の前提にあるのは出征した父親のいる家庭で、祖父さんと婆さんと孫たちで暮らしている。そこから長男が出征していく、というストーリーである。それでも農村世界は平和であったのだが、長男が満州へ行くことで一気に困難な局面にいたる。そこに長男の涙があり、しかし頑張ってくれという留守家族の願いが何気なく歌われようとしている。百舌は泣かされているのである。

しかし、この当時の農村の状況はどうだったか。
読売新聞の渡邉恒雄氏が回想録のなかで語っている。大学2年のとき勤労動員で新潟県の岩船郡関川村沼地区というところにいく。召集令状がくるまでの農作業の手伝いである。結果的には2カ月であったが、召集令状は次次に動員先にくる。その動員先の印象を次の様に書いている。

「貧農の生活を目の当たりにしていると、2・26事件を起こした将校たちではないけれども、同情したね。新潟とか東北の寒村はひどいもので、死に物狂いで働かなければ食っていけない。 そこは、ひとつの田んぼの面積が一坪ぐらいの棚田。畦が作ってあって、そこを登っていく。本当に非生産的な農業だった。僕は19歳の同い年の娘と二人で肥え担桶を且ついて、急坂を登って、田んぼに行くんです。肥え担桶の中は自分のした糞なんですよ。はじめ僕はそれを知らなくて、便所に行って糞をたれるたびに紙で拭いていた。そしたら紙を捨ててはならんと。みんなは柿の葉で尻を拭いてるわけだ。紙はすぐには腐らないけれども、柿の葉っぱはすぐ腐るからね。

化学肥料のない頃だから人糞と尿が一番大切なんだな。田植えの前に、まず水を引く。無色透明で飲めるくらいのきれいな水ですよ。そこに糞尿の桶をもって行って撒くんだ。見る見るうちに田んぼはうんこで黄色になる。

同い年の娘も、小便をしたくなるとサッと尻をまくって、僕のいる横で田んぼにするわけですよ。原始的な農業だね。それを鋤ですくわけだ。そうするとピヤッ、ピャッと黄色い水が飛ぶ。それが口に入るんだ。堪えられなかったね。こんな事を毎日させられるぐらいなら死んだ方がいいと思った。軍隊に行ったら、こんな糞まみれになることはないだろうと考えたね。

だから招集令状がきたときは、何のショックもなかった。 」

サトウ・ハチローが書いた農村と渡邉氏が経験した農村は場所は違うかもしれないが歳月は10年も違わない。にもかかわらず、現実認識がこれほど違うのはサトウ・ハチローには国家目的によって締めつけられつつある農村を肯定的に歌おうという意図があり、渡邉氏にはなかったということであろう。目的がなかったとすれば、目前の現実を意図的に曲げる必要はなかったのであったろう。

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ついでに筆者の東北の村の、当時の状況を思い出してみよう。
村には、わたひき車も水車もなかった。もう無かったというべきかもしれないが、母の幼い頃に祖母が母たちのために機を織ってくれたことがあるとは聞いたことがある。これがそうだとは示されたことがないから、よそ行きのものではなかったのあろう。

しかし、村々から満州へは沢山の人が行った。開拓民として一家をあげて行った人、軍属で行った人、志願で行った人、召集令状が来て招集された人、どの村どの部落にも一人もいないということは無かったのではなかったろうか。「兄さは満州へ行っただよ」
しかし「鉄砲が涙で光っただ」は、容易に想像できることではあっても、誰も満州へ行って行ったものの現実は見ることができなかったから、その頃は、満州にはいいことだけがあるような雰囲気が村にはあったのではなかったろうか。

現に私の長兄などは、少年航空補充兵として志願して満州へ行った。志願していくのには、望んでいくという一面があるから少年で航空隊に行く様な晴れがましさが一方であったのかもしれない。それが良かったのか悪かったのか、思い惑う様になったのは、多分、戦局が揺れ動いて自分たちの上にも空襲がくる様になってからであったろうが、その時には父母の選択肢はもはや無かった。

しかしながら、「兄つぁんは志願して満州へ行った」ということは前途を切り開くために行ったのだ、というニュアンスがあったことは否めない。祖父も父も母も、長兄が志願して満州へ行ったのは一家の自慢の種であった。その意味では、「百舌よ寒くも泣くでない 兄つぁんはもっと寒いだぞ」という側面も、遺されたわれわれには示されていた様に思う。 どういうわけが、「秋の百舌」なのである。

百舌は一年中いる鳥である。ただ、秋になると落葉樹は葉を落とし、田んぼの稲は刈り上がるから、地面を低く飛ぶ百舌が目立つのである。

秋風もヒョウヒョウと葉のない梢をわたっていく。百舌の止まっている木も枯れ木ではない。秋は長い冬の前の寂しい季節である。出来秋は大人は忙しいが少年期のわれわれにはさほどの用事があるわけではない。家の前の刈り上がった田んぼをわたっていく秋風の末に目をやると、右手に奥羽山脈の青い影が見え、風下には遠く男爵家の土蔵の白い壁が見える。それを過ぎると風景はかすんでしまう。そのあたりの風景の中に百舌はいたのであった。

キィーン、キィーンと鳴き声をあげて地上低く飛んで行く、尾が長めの茶色っぽいい胸毛に同系色の頭、その下に鋭く黒っぽい横に切り開かれた目、その中心にある鋭いくちばしが餌を狙っている。しばしば見かけることはあるが飼ったことはない。なのに目が行くのは、筆者自身が秋の気配に敏感になって、冬の予兆におののいている為かもしれない。

2014.7.1 引地

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