(半蔵門だより)

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ハンゾーモン 半藏門 江戸城内郭の城門の一。一に麹町御門ともいふ。吹上禁苑の裏に當る。名稱は門内に服部半藏正就の屋敷があったので名づく。半藏御門。

出典:「大辞典」第21巻 昭和11年5月刊 平凡社 発行者下中弥三郎

2022・5・20

大衆文学における「日常」の研究 〔1〕      田山花袋著「東京の三十年」より

田沼

 

    〔川沿いの家〕 芝居を好むものは、必ず草子を読む

 

 深川の高橋(たかばし)をわたって、それについて左に行くと大工町、その小名木川(おなぎがわ)の水に臨んだ二階屋の入口の格子を明けて、その板敷きで、幼い私が何か音を立てていると、

「何だね、録かえ・・・」

 こう言って、伯母が驚いたような顔をして出てきた。

 母の姉で、優しい芝居好きの伯母だった。伯母は亭主に早く死なれて、針仕事などをして独居していた。

「何うしたんだえ?」

 私は、鮭を二疋ほど持っていた。主人の使いで、此方面に、歳暮の使いに来た次手に寄ったのであった。それを聞いて、安心したように、又は同情したようにして、私を上にあげて、チヤホヤして呉れた。長火鉢の傍には裁縫仕事が置いてあって、貸本屋の草双紙が読みさしてあった。

 芝居好きの伯母は、その折々の見物をついぞ欠かした事がない位で、団十郎、菊五郎、もっと以前の役者の芸などにもよく通じていた。私の母、それよりもこの伯母から私は文学的血統を引いたのではないかと思われるくらいで、顔のくしゃくしゃした、優(やさ)しい神経質の話をする時にも、いかにも感激して聞くという表情をした。その眼からよく涙の流れるのを、私は見た。

「芝居も好いが、お金(あし)が掛かるから、それよりも貸本が一番安くて好い。」

 伯母はこんなことを言って、春水物、近松物、などによく読耽っていた。一日裁縫をして、夜、寝る前に一二時間、それに読み耽るのか何よりも楽しみだ、ということであった。

 伯母の胸は、男女の情話や心中や悲しい哀れな物語などにいつも震えていた。長押(なげし)には、三味線が掛けてあった。伯母は常磐津(ときわづ)もかなり巧みに弾いた。

 その時分、伯母は四十五六であったろうか。息子が一人、娘が一人、それも義理のある子で、伯母には肉親の子というものが無かった。それに、娘は後まで伯母の世話をよくしたけれども、息子は無頼漢(ぶらいかん)で、その時分、もう家にも寄りつかぬようになっていた。

 その近所には、殿様の下屋敷があって、藩の者の上京したものが大勢住んでいた。

 二階から眺めた、小名木川の朝夕の景色は、いまだに私の目に見える。通って行く船、ぎぃぎぃという櫓の音、おりおりは帆の大きな家の様な影を欄干に漲らせた。

 朝早く、川に臨んだ家々のまだ起きないうちから、

「あさり! むき身!」

 こう叫んで、小さな櫂をあやつって、ゆたゆたと流れに漂いながらあさり船が通って行った。それを、あちこちで呼び留めると、小舟は静かに岸に寄ってきた。舟の中はあさりや蛤で一杯に満たされていた。伯母はよくそれを呼び止めては、目笊(ざる)を持って行ってそれを買った。

 午後には、蠣殻町から出て高橋(たかばし)に寄ってそして利根川へと出て行く小さな蒸気がいつも通っていた。この汽船は、私にはなつかしかった。何故なら、それは私達が故郷から乗って都会へ出てきた汽船であるから・・・・。

 母親も私達も東京から田舎に往来する度毎、いつもこの伯母の川沿いの二階屋に泊まった。母は伯母と殊に仲が好かった。伯母は私の母を「おてつ、おてつ」となつかしそうにして呼んだ。

 その時分、東京に修業に出ていた私の兄も、日曜などによく此処にやって来た。「この間、実(みのる)が、好い天気なのに、高い足駄を穿いてガラガラ言わせて来たよ。」こんなことを伯母は幼い私に話した。

 いづれ其の時は、御馳走になったり、小遣いを貰ったりしたであろうと思うが、私ははっきりと其の時のことを記憶していない。唯今も覚えているのは、私が鮭を二疋小さい体にお負(おぶ)って、寒そうにして出かけて行くのを門口に立って遠くまで見送っていた伯母のやさしい顔! あの世の中の艱難にやつれた皺の多い神経性のなつかしい顔!

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