ハンゾーモン 半藏門 江戸城内郭の城門の一。一に麹町御門ともいふ。吹上禁苑の裏に當る。名稱は門内に服部半藏正就の屋敷があったので名づく。半藏御門。
出典:「大辞典」第21巻 昭和11年5月刊 平凡社 発行者下中弥三郎
よしなしごと [1]
旧臘、八十四歳になった。ここに事務所を構えて四十年を越えることになった。十八歳で上京してから、通算してみるとこの界隈で六十年以上も生きてきたことになる。
この人生にどのような意味があるか、或いはあったかは問うところではないが、半蔵門界隈に生きてきた一人の老人の記憶に残った「よしなしごと」を記して読者の興に供して見たいと思う次第である。
私の祖父の生まれたのは明治7年であると思われるが、小学校にいったのかどうかは、はっきりしない。彼の話の中でその思い出を聞いたことがなかったからである。彼の父、つまり私の曽祖父は大工であったから寺子屋にいったことや、そのために涌谷(わくや)の藩校にも通った話は間接的にも聞いたことがあったが、祖父に関してはその手の話はきいたことがない。また、父は上手ではないが丁寧な字を書いたが、祖父には書いたことがなかったのではないかと思わせるところがあった。
祖父は、日枝神社の氏子代表のようなことをしていたから無文字だったとも思えない。村の祭礼には、何時も行屋の奥につめていて、最後は前後不覚になるまで酔いつぶれていた記憶があるから、この氏子代表には熱心だったのだろうと思われる。そこでもしかし祖父の筆跡を見た記憶はなかったのである。
彼は身だしなみのいい人で、普段襦袢も袷も揃いのゾロリとしたネズ色の着流しで、秋には絹の襟巻きに温かそうな毛糸の帽子姿であった。彼の娘たちの力添えもあったのだろうが、私の父親の普段着とは比べることができないほどのお洒落な姿であった。彼は普段の生活は、家の奥座敷(でい)にいて、孫の一人である私の姉と暮らしていた。祖母は私の生まれた頃は既になく、彼によると彼が四十の年に亡くなっていた。
彼の右足は棒の様にまっすぐにのびていたが、曲がることはなかった。なんでも寒夜転んで右足の膝を砕いて、それが固まってしまったのだという。膝の骨折は重傷であるが、今日であればリハビリで回復することができるし,長じても患者の努力次第で回復は可能だと医者には言われたらしいのだが、彼はそれに我慢ができなかったのだという。想像するしかないが、妻を無くした後の彼の生活が関係しているのかもしれない。その事情については誰からも聞いたことがない。
彼は、四十歳で妻をなくしたのを期に隠居して、ほまちを得ることにして家業からは一切手を引いていた。彼は庭いじりと植木いじりとに特化して、後はほまちを運用してニワトリをかったり植木を揃えたりしていた。多少なりとも外の世界に触れるのは、神社の氏子業務であった。80戸程の部落は北と南に分かれいたから彼は南の代表で北は福田さんというヒトが代表であった。氏子代表は具体的に何をするのか、あるいはしたのかはわからないが年に一回は奉加帳の様なものを回覧していたから、もしかしたらその業務は福田さんがしていたのかもしれない。
四十歳で隠居してからだと思われるが、彼には村の寡婦の恋人がいてそこから帰らなかったという話しもある。なんでも、その寡婦の家にも家族はいたのだったろうか、困り果てて迎えをよこす様に連絡がきた。父が困り果ててか、寡婦の家にむかえに行ったということだった。もし隠居が居ついてしまったのでは、家族も困ったのだったろう。あるいは、稼ぎの無くなった隠居では未来はないということだったのかもしれない。
私が祖父のことを意識したのは、祖父にこのようなことが無くなった後のことだと思われるが、それでも祖父はわれわれ孫にそれほど関わろうとはしなかった。私が七つか八つの頃のことであるが、庭に祖父の植えた梅の老木が有って、春には白い花が咲きかすかな香りがする、祖父も多分自慢の植木のひとつであった。もちろん、その時は五月か六月の頃であったから花はなかったが、老梅の根は地上にも雄々しくでていた。祖父は、縁側に座ってそれを見ていたのかもしれない。祖父は丁度、その時遊びに来ていた西の家の正規さんとその木に登って遊んでいる私たちを見て何かを叫んだ。「こら~」といったのか、「危ない~」といったのか、それはわからない。私は老梅から落ちて気を失った、のらしい。そしてその右の腕に、老梅の根が食い込んでいたのである。私が気ついたときには、「味噌汁を飲ませろ」という緊張した祖父の声がしたのを覚えている。その後のことはよく覚えていないが、右手の肘の内側に突き刺さった老木の根は化膿してぽっかりした穴をあけた。それも覚えている。そしてその後は、しばらく父の牽くリヤカーで田尻の病院に通った。あるいは母の牽くリヤカーもあったかもしれないが、祖父のかかわりはなかった。むしろ祖父との関係は遠くなったようであった。老梅は間もなく父によって切られた、と思う。
その傷の癒えて、忘れてしばらくした頃のことである。
一月の過ぎるあたりから、その頃は毎日の様に地吹雪がビュービューと吹いて、家の庭先の向こうの景色がみえないほどになる。家の中は温かいのだが、その先の道は一面の雪でどこもかしこも風さえあれば吹雪である。家の前から江合川の土手までしかみえないが、ほぼ五キロぐらいか、五月になれば青々とした田んぼが広がるのだがこの季節はくる日もくる日も雪と吹雪である。学校のあるこどもたちは、それでも変化を見ることができるが、障子の窓越しにしか見えない老人には千年一日のよう感じられたのかもしれない。
その二月を過ぎる頃だったと思うが、祖父はふと漏らしたのである。
「もう誰か,そろそろ西山の風穴をふさぎに行ってもいいだろうに。」
「えっ」
となったのは当然であるが、こどもたちはそうはいわなかった。私も含めてそっとその場にいた母親を見たのである。「そんなこと聞いたこともない。学校でいったら笑われるだろう。」しかし、我が家の爺様がいうことである。何らかの真実があるかもしれない。また、爺様に恥をかかせてはなるまい。母はそう思ったのかもしれない。
「そんなことする人、今どきいないでしょう」といったのである。
2021.2.28 引地正
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