(半蔵門だより)

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ハンゾーモン 半藏門 江戸城内郭の城門の一。一に麹町御門ともいふ。吹上禁苑の裏に當る。名稱は門内に服部半藏正就の屋敷があったので名づく。半藏御門。

出典:「大辞典」第21巻 昭和11年5月刊 平凡社 発行者下中弥三郎

2021.04.15

よしなしごと 〔2〕暗い秘密

引地正

 私は、昭和18(1943)年4月に国民学校に入学した。

 その頃、村には大人の男はみな年寄りで、あとは女こどもしかいないような世界であった。それだけに、小学校に入るとうるさい固い大人はいても、直接頭から押さえつけるような10代の後半に当たる先輩はいなくなっていた。そのためか、よくある上級生の圧力は弱まっていて、頭の上の空は高くなっていたように思う。目の前にいる同級生との世界だけが日常になって誰も干渉しない世界。学校に行けば、もちろん先生はいて、何時も厳しい視線を向けていたかもしれないが、それ以外では目の前にいる級友たちがすべてで、そこでの論理がすべてと言っていいような世界であった。

 どうもその頃の思い出の印象だから、それがすべての世界であったはずはないが、ひどく自由で選ばれてある世界にいたような感じであった。別の見方をすれば、このこども達は村からも、あるいは家からも期待されていたのであったろう。

 それは今となってみれば痛いほどわかる感性である。

 例えば村でいえばほとんどの若者、病人を除く若者たちは青年になれば出征、尋常高等小学校を終われば勤労動員もしくは幼年志願兵となったのだから、身近な希望は小学校つまり国民学校生であったのかもしれない。現に我が家でも、長男は航空少年兵を志願して渡満しており、次男は高等小学校を終わると勤労動員で常磐炭鉱に動員されていたし、上の姉は志願して赤十字病院の奉天に渡っていた。このような状況下で、あえて言うほどの希望がありえたろうか。
 国家動員法というのは、精神において村の歴史や習俗・習慣まで縛る一方で村々の活力、余剰労働力をすべて奪いさるものであったから、こどもへの教育も干渉も肉体的成長を待つしか方法はなかったのかもしれない。村の役場でも、学校でも国家総動

員法の精神に抵触するものは何事であれ弾き飛ばされそうであった。「国家非常時」の要請が満たされるべき第一であるから、村の財政も個人の財政も活動を停滞させていたようであった。

 

それが国民学校の低学年では、ある種の自由を感じさせたのかもしれない。こどもの世界は、因習を除けば肉体的優位と何程かの知識を与えられたたものが支配的である。体が大きくて力があって何程かの知識があれば、こどもの世界ではおそれるものがなかった。

 いさば屋のコウジは、そういう意味では少し背が低くて、猫背で目にいがみがあって引っ込み思案で、強いこどもという印象ではなかった。しかし彼にはすぐの上に上級生の兄貴がいて、コウジに何かあれはすぐに仕返しにくるという恐れはあった。だから用心したというのでもないが、だからいじめたというのでもなかった。
「コウジ、コウジ」
とは呼んでいたが、もちろん、日常的な呼びかけ以上の意味はなかった。いさば屋の息子だとも知らないし、上級生にいるという彼の兄貴たちのこともあえて気にしたこともなかったし、見たこともなかった。
 同じ荻曽根部落には、同級生が北から一番奥がコウジ、その前に三上本家の疎開子の菅井、菅井の前通りに三上分家の信、そこから少し飛んで大庄屋の隣の尾形、神社前のツトム、そこからずっと居なくて南は佐藤の中啓さんと僕、そこからさらに離れて朝日壇の優八郎と勇の9人である。入学したときには、もちろん優劣は付けがたかったろうが、まずクラスが2つに分かれたころから、優八郎と勇が優等生になり、その他は劣等生でもないが普通の小学生になったというか、とされた。
 通学路の一緒だった私と中啓さんの前には、通信簿の日に作業着を着た部落の誰かが待ち構えていて検査されたと思う。そして「なんだお前たちは、みな同じじゃないか」といって彼はごく自然に通信簿を返してよこした。それがどんな意味のあることか、その時はわからなかったが何か村の一員になれたような嬉しさがあったのを覚えている。

 それが2年生から3年生になるころかに小学校の校舎に兵隊が住むようになって、学校の生活ががらりとでもないが変わっていった。教室に兵隊の住処ができて、ウジがわいたり、いい年をした兵隊が若い上官にこづかれているのを見て、ああこれじゃ戦争は負けるなと密かに思ったりしたのは、もっと後になってからである。その頃はまだ、そういう学校生活が楽しかった、自分の体が経験している学校生活に慣れるのに夢中であった。

 

 そういう生活が続いていて、まだ学校に兵隊が来ていなかったころのある日、多分昼の弁当を食べた後だったと思うが、コウジが「うわあっ、この野郎」という声を発して突如、殴りかかってきたのである。私はそれがどんな理由でそうなったのか、わからなかった。

「なんだよ、コウジ、気でも狂ったか」というのが正直な感じだった。
 ところが、彼は何か私に含むところがあって、竹刀の鍔を50センチほどのタコ糸紐で腰のベルトに結んで準備してきていたのである。あっとその鍔から逃れようと後ろ向きに顔を覆ったとき、彼はすばやくその鍔で私の後頭部を多分二つ三つ殴った。痛くはなかったが、さっと後頭部から首筋に掛けてあたたかなものが流れ出るのがわかった。何故か「血だ」ということはわかったが、ほんの一瞬のことではあり、多分私には起こったことがよくわからなかったと思う。コウジは、「わあっと」叫んで泣きながら教室から逃げ出していった。
 その後のことは、よく覚えていない。
 驚いて先生が飛び出してきて、私を診療所に連れて行ったに違いない。校長先生とも相談したのかもしれないが、どんな話し合いがもたれたのかはわからない。私は、父親が呼ばれて学校に来て、それに連れて帰られたのだと思う。私の頭は、白い包帯でグルグル巻きにされて、いかにも大怪我をした様子で弱々しい足どりで家に帰った、という自意識であった。
 むしろ私の驚きは、この後に待っていたのである。

 それは帰ってからすぐだったのか、それともしばらく休んでからだったのか、はっきりしないが、私は父親に連れられて村の道を北に向かって歩いていた。何処に行くのかは、説明がなかったし、それまでコウジの家であるいさば屋にも行ったことはなかった。ところが、大庄屋の前の道を過ぎても歩いて、やがて三上本家の大きな門の前を曲がっても歩いていくのである。その奥に石橋があって、石橋を渡ったところにある大きな家の薄暗い勝手口を入ると、善太郎さんがそこで父を待っていた。
 父は、すぐそこで腰をかがめて「この度はどうも……」ともぞもぞと言った。
 善太郎さんというのは、いさば屋の入り婿でコウジの父親である。有能な働き者で村でも有名であった。私はそれを知っていたから、善太郎さんが何か詫びの言葉でも言うのかと思ったが、そうではなかったようであった。

「なに子供どうしのことですから………」気にしないでくださいと、言ったのは善太郎さんであった。
 私はそこで突如、我が家の暗い過去を思い出したのである。善太郎さんが当主であるいさば屋は、私の父の祖母たけよの実家なのである。祖母はもちろん音三郎の母である。この音三郎の母のことは、我が家では口に出さないのが決まりのようになっていたのである。「それがどうした」といいたいところで、この際の被害者は私なのであったが、しかし私は、それを言うことは帰ってからも言いだすことはできなかった。そのことが何なのかは知らなかったが、それを言われたときの父の顔も祖父の顔も見たくなかったからである。つまり、その秘密を聞く用意が私にもなかったからである。
 コウジとは、この後戦後になるまで何年も顔を合わせることがなかった。彼の兄貴達も姿を現すことはなかった。総勢1学年で約100人、6年生まで入れても全校生徒600人程であったからすれ違ったりしたことはあったに違いないが、私も彼らを意識することはなかったから、何かそういう意識が互いにあったのかもしれない。

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